竹久夢二の壁紙

竹久夢二の壁紙/ICHOU


銀杏(イチョウ)の葉と実(キンナン)

『縮刷 夢二画集』の装丁に使われている図案の壁紙です。

銀杏の葉と実をあしらったアールヌーヴォー調の図案で、夢二の千代紙にも同じようなデザインがあります。

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竹久夢二の壁紙

竹久夢二の壁紙/RINDO

RINDO/リンドウ(釣鐘草)


リンドウ(釣鐘草)

学校へ行くときや森の蔭に散歩に行くときに持っていく、「ハンカチ」「手提げカバン」「栞(しおり)」のための図案として描かれました。

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竹久夢二の壁紙/MAME


長田幹彦著『闇と光』の装丁に使われていた図案の壁紙です。

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ウィリアム・モリスの壁紙

竹久夢二の壁紙/NASHI

RINDO/リンドウ(釣鐘草)


洋梨と葉

銀座「千疋屋」(フルーツパーラー)の広報誌「fruits」の装丁に使われていた図案の壁紙です。

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竹久夢二の壁紙/ARASHIYAMA & INARIYAMA


嵐山と稲荷山

絵封筒に使われていた図案の壁紙です。

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ウィリアム・モリスの壁紙

竹久夢二の壁紙/YURI

RINDO/リンドウ(釣鐘草)


百合

絵封筒に使われていた図案の壁紙です。

「百合」の他に、「わらび」「かぶ」「どくだみ」「たんぽぽ」の図案もあります。

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竹久夢二の壁紙カタログ(リリカラ WALL DECO)はこちらからご覧いただけます

 

竹久夢二 (1884 - 1934)

山県邑久郡生まれ。本名・茂次郎(もじろう)。 17歳で上京し、早稲田実業学校へ入学。在学中より、独学で絵を習得し、新聞・雑誌にコマ絵を投稿し、それらが認められ明治39年画家として活躍し始める。夢二が描くセンチメンタルな画風の女性絵〈夢二式美人画〉は青年子女を魅了、大衆の心を捉えた。

明治42年に『夢二画集 春の巻』を刊行したのをきっかけに、次々と詩画集などを出版し、評判を得る。明治44年には「月刊夢二エハガキ」の発行も開始した。大正3年には日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店、夢二意匠による小物類が販売され、東京名所の一つと称された。

夢二は日本画をはじめとし、水彩画・油彩画・木版画、さらにデザインの分野や挿絵まで幅広く作品を残し、詩や童謡など文芸面においてもその才能を発揮した。大流行した「宵待草」は夢二の作詞によるものである。

恋多く、漂泊の人生を歩み、さらに旅を重ね、大正ロマンを象徴する存在として、現代においてもその軌跡は注目されている。 昭和9年9月1日没。49歳11ヶ月の生涯を閉じた。
(竹久夢二美術館より転載)

    夢二の壁紙/MATSU

夢二の恋

金唐革紙
たまき

 1882年 - 1945年。 戸籍上唯一妻となった女性。死別した前夫との間に2人の子供がいて、自立のために早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として毎日店に通いつめた挙句、2ヵ月後には結婚。2年後には離婚。その翌年に再び同棲、そして、別居を繰り返す。
 夢二が彦乃を知った後の大正4年(1915年)、たまきと画学生東郷鉄春(青児)との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎え絶縁。しかし、たまきは結核療養中の夢二を信州まで見舞い、夢二亡き後も終生彼を慕い続けた。

彦野

 1896年 - 1920年。 日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、女子美術学校の学生で、夢二のファン。絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し、交際スタート。 たまきと別れ京都に移り住んだ夢二と同棲。
 大正7年(1918年)九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病。父の手によって東京に連れ戻され、夢二は面会を遮断される。御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、そのまま短い人生を終える。 彦乃は夢二が最も愛した女性で、「彦乃日記」を残している。

お葉

 1904年 - 1980年。東京美術学校のモデルとして人気があり、藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲。渋谷にて所帯をもつ。
 大正13年(1924年)、夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住む。一児をもうけるが夭折。翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離。後、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごした。 『黒船屋』はお葉がモデル。

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